会社員40年、年金生活10年、そして今。~秋田世豪

会社員40年、年金生活10年で体験してきたこと、感じてきたことを綴ります。昭和・平成・令和の日々。~秋田世豪のシニアブログ、リタイアブログ

八郎潟の水門開放(秋田世豪)

八郎潟の水門開放(秋田世豪、2007年)

雪解け水で水質浄化

秋田の八郎潟調整池(八郎湖)では21世紀になってから、アオコの大量発生など水質悪化の問題がクローズアップされるようになりました。これを受けて2007年、それまで農業用途以外には開放できなかった防潮水門を開けて、汚濁した湖水を海に放流、河川から雪解け水を取り入れる試みが始まりました。

秋田県が初の試み

2007年度には湖沼水質保全特措法の「指定湖沼」に指定され、汚濁の主要因である水田からの排水に対し、規制を強化できるようになりました。秋田県はこれを機に、浄化能力があるヨシの群生地に湖水を流し込む取り組みもスタートさせ、八郎湖の浄化対策を本格化させました。

八郎潟の関連施設は、開発の経緯から農林水産省が管理していましたが、水質改善目的での開放が認められました。

防潮水門開け、汚水入れ替え

防潮水門は、農業用水を確保し、海水の逆流を防止するため、農閑期で50センチ以上、農繁期で1メートル以上、八郎湖の水位を海面より高く保つために設置されています。当時実施されたのは、水位が20センチ低くなるまで湖水を放流してから再び閉じ、河川からの流入で水位を50センチまで上げる作業でした。きれいな雪解け水が多いこの時期に、この作業を5回程度繰り返し、約9600万トンの湖水の半分近くを入れ替えました。

八郎潟調整池は1978年度の干拓完了以降、1リットル当たりの化学的酸素要求量CODが国の環境基準(3mg)を上回り続けました。2005年度には調整池中心部で、過去最悪の8.1mgを記録しました。2006年夏には、大量発生したアオコが馬場目川を逆流し、八郎潟町上水道が取水できなくなるなど、水質悪化が深刻化していました。

秋田県庁の環境管理課八郎湖環境対策室

2006年度に設置された秋田県庁の環境管理課八郎湖環境対策室は「2007年は暖冬で融雪水は少ないかもしれないが、どこまで改善できるか、数年かけて効果を検証していきたい」と説明しました・

https://www.pref.akita.lg.jp/pages/genre/hachiroko

ヨシの浄化力活用も

秋田県はさらに、南部排水機場東側の未利用地約150ヘクタールに広がるヨシの群生地を“自然浄化エリア”と位置付け、湖水を流し込んで浄化させる試みを2007年度から始めました。ヨシには、窒素やリンを含む汚濁物質を沈殿させる浄化機能があり、湖岸一帯にヨシやマコモなどの植生を復活させることも計画しました。

汚濁源の発生対策にも力を入れ、2007年3月中にも窒素やリンの基準値を独自に定めました。さらに、「指定湖沼」となった後は、大潟村を流出水対策地区に指定し、汚濁源の半分近くを占める水田からの排水規制を強化し、環境保全型の農業を推進しました。

秋田県の八郎潟の水の入れ替え

秋田県は、琵琶湖に次ぐ国内第2の湖だった八郎潟(はちろうがた)を干拓してできた八郎湖の水質改善を目指してきました。21世紀に入ってから、特に汚れのひどい西部承水路で水の入れ替え作業を始めました。

八郎湖の浄化対策としては干拓以降最大規模でした。地元の漁業や農業関係者は「イメージアップのためにも、水をきれいにしてほしい」と効果を期待していました。

秋田県庁の環境政策課によると、八郎湖の水質改善プロジェクトでは、2000年秋に水を3回入れ替えたそうです。西部承水路の全体水量848万9000トンのうち1回に326万5000トンを4カ所の取水口を開けて大潟村の用水路に引き込み、汚れが比較的少ない東部承水路と南部にある調整池に出しました。その後、東部承水路と調整池の水を西部承水路に戻しました。

それまで八郎湖の水対策では、農業肥料の管理や水をかきまぜる機械の設置などに取り組んできました。しかし、大きな効果はあがらなかったといいます。秋田県は「農業用水路や取水口など既存の施設を使うので費用が少ない」と説明しました。

秋田県は八郎湖で湖や沼の水質基準となるCOD(化学的酸素要求量)を定点観測していました。農業用水が多く使われる5、6月には西部承水路は12mg/Lと、環境基準3mg/Lの4倍の汚れ(1998年までの5年間平均)でした。

窒素やリンを含む富栄養化により夏期にアオコが発生する問題も起きました。八郎湖増殖漁業協同組合(当時の組合員560人)は「1990年代初頭くらいからアオコが発生して漁獲時期を制限されるなどの被害を受けてきた。抜本的な水質改善策になってほしい」と期待を寄せました。(秋田世豪)

秋田・八郎潟干拓(1957年~)の記録映画(秋田世豪)

秋田・八郎潟ドキュメンタリー映画(2011年)秋田世豪

ドキュメンタリー

秋田・八郎潟(はちろうがた)のドキュメンタリー映画「里湖(さとうみ)八郎潟物語」が2011年、製作されました。

7月12,13日に東京都新宿区牛込で上映会が行われました。

群像舎

記録映画などを製作する東京都新宿区の「群像舎(ぐんぞうしゃ)」が完成させました。

長さは1時間28分。上映会の会場は、新宿の牛込箪笥(うしごめたんす)区民ホールでした。

干拓事業

映画は、1957年から20年かけて行われた国の秋田県八郎潟干拓事業(埋め立て事業)に焦点をあてました。

生態系の破壊や水質汚染の現状などが紹介されています。

干拓で5分の1の大きさになった現在の八郎潟を舞台に、秋田県立大の研究者や市民団体、地元小学生などが自然再生に取り組む姿を追いました。

岩崎雅典監督

監督を務めたのは、群像舎代表で、秋田県男鹿市(おがし)出身の岩崎雅典さん。知人から八郎潟の現状を聞かされた岩崎さんは2009年11月から取材を始めました。2010年5月から2011年1月にかけて撮影を行いました。ナレーターには秋田県出身の女優、浅利香津代さんを起用し、語りに秋田弁を交えました。

岩崎さんは「人間は自然の中で生かされていることを伝えたかった。八郎潟を元の姿に戻すことは現実的ではないが、この映画が少しでも昔の状態に近づける一助になってくれれば」と話していました。

入場料は、大学生以上の大人1200円(前売りは1000円)、中高生500円で、小学生以下は無料でした。12日の開場は午後2時で、同2時、4時半、7時の3回に分けて上映されました。13日は午前10時半に開場し、同11時と午後2時半に上映しました。

参考動画

入社直後に経験したオイルショック:秋田世豪


「新社会人としてスタートした年に経験したオイルショックについて」(秋田世豪)


オイルショックは、就職したばかりの1973年(昭和48年)に直撃を受けました。入社した会社がひっくり返るようなダメージを受けました。

オイルショックとは

オイルショックとは、1973年(第1次)と1979年(第2次)の2回にわたって起きた「石油不足」です。

1973年10月6日に第4次中東戦争が勃発しました。同月16日にアラブ産油国原油価格引き上げ、生産制限、供給制限を決定し、戦略物資としての石油の重要性が再認識されました。1979年はイラン革命による混乱で産油国が大幅値上げを決定しました。第1次オイルショックでは原油価格が4倍、第2次では3倍に跳ね上がりました。物価は前年同月比20%というハイペースで上昇、石油節約のために街頭のネオン点灯やテレビの放送時間までもが短縮されました。

1973年の第4次中東戦争勃発時には、後の狂乱物価、トイレットペーパー騒動の大混乱は予測されていなかったフシがあります。なにしろそれまでは所得倍増計画を前倒しで実現したほどの奇跡の高度成長期でした。2年前のドルショックにも、輸出産業は耐え抜きました。

高度成長時代の終焉

アラブの産油国が石油供給の削減という強力な戦略を打ち出してからも、しばらくの間、政府の反応は鈍かったです。石油あるいはエネルギーの消費規制について、通産省(現:経済産業省)は10月末ごろまで、少なくとも公式にはその必要はまだないという態度を保持していました。

1974年度の経済成長率は戦後初のマイナスに転じました。オイルショックを契機に石油備蓄法が制定され、省エネ、脱化石燃料の動きがスタートしました。そして、1973年をもって高度成長時代は終焉を迎えました。

大学卒業・新卒入社から30年間の世の中の年表

1998年日本版金融ビッグバン長野オリンピック1999年日産がルノーの傘下入りユーロ導入開始2000年九州・沖縄サミット三宅島噴火2001年米国同時多発テロ中央省庁再編2002年日韓共催サッカーワールドカップ小泉純一郎首相が訪朝

出来事 社会・流行
1973年 第1次オイルショック 変動相場制移行
1974年 田中角栄金権批判 三菱重工ビル爆破事件
1975年 第1回サミット開催 沖縄国際海洋博覧会
1976年 ロッキード事件 北ベトナム統一
1977年 日本赤軍日航機ハイジャック 王貞治、ホームラン世界記録
1978年 日中平和友好条約調印 成田空港開港
1979年 第2次オイルショック 国公立大学共通1次試験スタート
1980年 モスクワオリンピックボイコット 韓国全土に戒厳令
1981年 中国残留日本人孤児、来日始まる ポートピア81開催
1982年 東北・上越新幹線開業 ホテルニュージャパン火災
1983年 大韓航空機撃墜事件 東京ディズニーランド開園
1984 グリコ・森永事件 ロス疑惑
1985年 プラザ合意 日航機墜落
1986年 チェルノブイリ原発事故 男女雇用機会均等法施行
1987年 公示地価急騰 JR6社発足
1988年 牛肉・オレンジ輸入自由化 リクルート事件
1989年 消費税スタート ベルリンの壁崩壊
1990年 ソ連大統領制導入 大学入試センター試験スタート
1991年 湾岸戦争 雲仙普賢岳火砕流発生
1992年 PKO部隊の第1陣が海外派遣 公務員の週休2日制開始
1993年 非自民連立で細川内閣発足 サッカーJリーグ発足
1994年 自社さ連立で村山内閣発足 関西国際空港開港
1995年 1ドル80円割れ 阪神淡路大震災地下鉄サリン事件
1996年 消費税5%に引き上げ決定 エイズ薬害問題
1997年 山一・拓銀経営破綻 香港返還